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八十二文化財団で「お金の歴史」と「長野県の金融」を学ぶ、飯塚ゼミのアウトキャンパス・スタディ
松商短期大学部経営情報学科
准教授 飯塚 徹
飯塚ゼミでは、主に経営を学び、アウトキャンパス・スタディを実施していますが、経営に密接に関連し、また、金融機関へ就職する学生が多く、志望者も多いことから、夏期休暇中の8月7日に、長野市の公益財団法人八十二文化財団で、事業グループ・リーダーの藤森様から、「お金の歴史」と「長野県の金融」について、展示資料をもとに解説していただき、その後、各自、展示資料を見学しました。こうした施設は、長野県内においては、当財団だけです。
お金の始まりは、物品貨幣であり、大昔の人々は、自分の物と他人の物とを交換して欲しい物を手に入れていましたが、このような物々交換では、欲しい物を持っている人を探すのが大変で、欲しい物が手に入らない事が良くありました。そこで、「宝貝」が3000年以上前に、物品貨幣として使われていました。これを貝貨と言い、大昔の中国で長い間、使われ、お金に関係ある漢字に貝のつくものが多いのはそのためです。
やがて、物品貨幣として、金属が広く使われるようになりました。金、銀、銅などの金属は、とても貴重で誰もが欲しがる物で、持ち運びもしやすいし、壊れにくいという性質があります。2800年位前には、中国で、農具、刃物をかたどった布幣や刀幣などが造られるようになりました。しかし、これらは持ち運びに不便で、最終的に、丸いお金になりました。
日本の貨幣の始まりは、中国の「開元通宝」を手本に、西暦708年の和銅元年に造られた「和同開珎」と言われています。江戸時代の通貨制度は、「貨幣制度の統一」(大判、小判、一分金、丁銀、豆板銀)、「三貨制度」(徳川幕府は金貨、銀貨、銅貨の三貨に統一)が行われました。明治政府は、1871年に「新貨条例」という法律を作り、お金の単位が「円」「銭」「厘」となりました。
明治政府は、貨幣制度を創っていく一方、米国を参考に、1872年に国立銀行条例を制定し、銀行を作ることにしました。国内に153の国立銀行が作られました。これらの国立銀行では、一定の条件の中で紙幣を造ることが認められました。そして、1882年に日本銀行が作られ、1885年には、日本銀行券が造られました。こうして、日本の紙幣は、日本銀行券に統一されました。いま、日本で使われている紙幣は、すべて日本銀行券です。
信州の金融業は、蚕糸業の勃興とともに始まりました。長野県は、生糸生産高が明治22年に群馬県を抜いて全国1位になりました。昭和2年に始まる昭和恐慌と、昭和4年の世界恐慌により、長野県の製糸業者は大打撃を受けました。そうしたなか、県内で大きな銀行であった第十九銀行と六十三銀行は、長野県の金融経済を支える目的で、昭和6年に合併し、八十二銀行が出来上がりました。創設以来、現在に至るまで、八十二銀行は、長野県の金融経済を様々なニーズに沿って地域密着で力強く支えています。
学生は、熱心に話を聞き、解説を受け、本物の貨幣や紙幣などを見学しました。「お金の歴史は面白い」「中国と米国から多大な影響を受けている」「八十二銀行の成り立ちが分かった」などと会話し、なかには、「八十二銀行に入行したい」「金融機関で働きたい」と決意する学生もいました。
「金融」を学ぶ、充実したアウトキャンパス・スタディになりました。
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